作品のポイント
物語のラストで、主人公は長年集めたチョウのコレクションを一つずつ潰していく。チョウを潰すたびに、そのチョウを捕獲した記憶がよみがえったに違いない。自分自信に対してこれ以上ないほど残酷な破壊方法であるが、主人公がこの残酷な破壊に最後まで耐えられたのはなぜか。直接的には書かれていないが、主人公は気性が激しく、エーミールには子供離れした残濃さを持っている。二人の個性・二人の関係を適切に押さえなければ、衝撃的なラストに納得できる説明を与えることはできない。(なお、語り内の主人公は「僕」と書くべきだが、ここではカッコなしの僕と表記する。)
1 叙述の巧みさ、自在さ
叙述が巧みなこと、叙述のテンポ(速さや密度)が自在に変化することがこの作品の特徴の一つである。
例えば、語りが始まって二つ目の段落「今でも、美しい蝶をみると、おりおり、あの情熱が身にしみて感じられる。」で始まる段落には、いくつものエピソードの断片が並び、テンポ良く編集された、映画の回想場面を見るようである。そして、断片として切り取られた一つ一つが素晴らしい。例えば、「強くにおう、乾いた荒野の、焼け付くような昼下がり、庭の中の涼しい朝、神秘的な森の外れの夕方」では、三つの場所がごく短い言葉で表現されながら、どの場所からも、陽の光、空気感、温度、匂いが感じられる。
あるいは主人公がエーミールの部屋に入った段落を見て欲しい。「せめて例のちょうを見たいと、僕は中に入った。」で始まる段落である。途中にある「果たしてそこにあった。」の文まではテンポが早いが、この文を境に叙述のテンポが遅くなり、クジャクヤママユの描写は拡大鏡で見るように詳細でゆっくりしている。主人公の動きや気持ちに合わせて叙述のテンポが変化し、これも映画を連想させる。
2 自分のコレクションを一つ一つ潰した理由
この作品のラストは衝撃的である。何年にもわたって情熱を傾け、彼の全てであったチョウのコレクションを自らの手で潰してしまうのだから。これは自殺に等しい行為と言える。ただし、ここで気になるのは、それを破壊する方法である。「そして、ちょうを一つ一つ取り出し、指で粉々に押しつぶしてしまった。」一瞬の激情でコレクションを粉々にしたのなら、その気持ちは想像しやすいが、彼は冷静さを保ちながらコレクションを一つ一つ潰している。チョウを潰すたびに、そのチョウを捕獲した時の記憶がよみがえったに違いない。自分自身に対してあまりに残酷な方法であるが、なぜそんなことができたのだろう。
この時、彼は苦痛を感じなくなっていたのではないか。もしも苦痛を感じていれば、そんな残酷な抹殺を最後まで続けられなかったと思うからである。〈チョウを捕獲した記憶も、チョウのコレクションも、どうでも良くなってしまった。〉そんな精神状態だったのではないか。
この作品は主人公が自分の少年時代の思い出を語る物語である。このような場合、二つの可能性が考えられる。
① 現在の主人公が語りに割り込んで補足をする。
② 現在の主人公が顔を出すことなく、当時の自分になり切って語る。
②の場合は一人称小説となるが、➀の場合は一人称小説ではなくなる。『少年の日の思い出』は②の形である。ここでは次を課題としたい。
主人公の気づいていない、作品理解のために必要なポイントを考える。
「作品理解のために必要なポイント」とは衝撃的なラストを理解するために必要な情報ということである。このポイントを理解すると、母親の不可解な言動の意図も推測できる。結論を先に言うと、確認するのは次になる。
〇 主人公が激しい気性の持ち主であること。彼は危険なほどに気性の激しい少年である。
〇 エーミールの残酷さ。エーミールは人を傷つける達人であり、それに快感を覚えるタイプの人間である。
〇 エーミールの悪意に満ちた言葉には、僕のコレクションを破壊するほどの力があった。
これらを順番に確認していきたい。
3 僕は激しい情熱の持ち主
少年時代の思い出を話し始める時、自分がチョウ集めに激しい情熱を持っていたことが最初に語られる。
ところが、十歳ぐらいになった二度目の夏には、僕は全くこの遊戯のとりこになり、ひどく心を打ち込んでしまい、そのため、他のことはすっかりすっぽかしてしまったので、みんなは何度も、僕にそれをやめさせなければなるまい、と考えたほどだった。ちょうを採りに出かけると、学校の時間だろうが、お昼ご飯だろうが、もう、搭の時計がなるのなんか、耳に入らなかった。
情熱を持って何かに打ち込むことは素晴らしいことだが、僕の情熱は抑えの利かないレベルにあったようである。下線部からは次の二つが分かる。
〇 彼の抑えの利かない情熱を周囲が心配していたこと
〇 周囲の人の気持ちや意見を、僕が全く聞かなかったこと
僕には自分自身を押さえられないところがある。そして、これが後の母親の行動の伏線になるのだが、それは8で改めて考えてみたい。
4 エーミールに対する殺意
主人公の抑えの利かない気性は時に危険なレベルになる。それはエーミールの言葉に対する彼の無意識の反応に現れている。
物語の山場、クジャクヤママユを壊した犯人が自分であることを告白する場面で、エーミールは彼に侮蔑的な言葉をぶつけ、主人公はそれに激しく反応する。その箇所を引用してみよう。
僕は、彼に、僕のおもちゃをみんなやる、と言った。それでも、彼は冷淡に構え、依然僕をただ軽蔑的に見つめていたので、僕は、自分のちょうの収集を全部やると言った。しかし、彼は、 「結構だよ。僕は、君の集めたやつはもう知っている。そのうえ、今日はまた、君がちょうをどんなに取り扱っているか、ということを見ることができたさ。」と言った。 その瞬間、僕は、すんでのところであいつの喉笛に飛びかかるところだった。
下線部に注意して欲しい。「あいつに飛びかかる」ではなく「あいつの喉笛に飛びかかる」というのは尋常でない。殺意が感じられるからである。この瞬間、僕はエーミールに殺意を抱いたことが分かる。相手の言葉に切れて暴力を振ってしまう場合、見境なく相手を殴るかもしれないが、あえて急所を狙ったりはしない。ここでは次の2つを確認しておく必要がある。
〇 主人公の気性は危険なほどに激しい。
〇 エーミールの言葉はそれほど僕を怒らせた。(主人公の脆い箇所を痛烈に攻撃した。)
ただし、エーミールの言葉のどこにそれほどの攻撃力があったのか、表面的な読みではつかめないと思う。そのためには、エーミールの個性、二人の間のわだかまりを確認する必要がある。
5 エーミールはどんな少年か
僕はエーミールをかなり嫌っていたようで、エーミールについて次のように書かれている。
この少年は、非の打ちどころがないという悪徳を持っていた。それは、子供としては二倍も気味悪い性質だった。(中略)とにかく、あらゆる点で模範少年だった。そのため、僕は妬み、嘆賞しながら彼を憎んでいた。
回りくどい言い方をしているのは、エーミールの子供ばなれした 厭らしさを端的に表現する言葉をうまく見つけられないからだろう。エーミールに対する気持ちは「彼を憎んでいた」に集約されている。この直後に、珍しいコムラサキをエーミールに見せて、こっぴどくやられるエピソードがある。このエピソードにはエーミールの厭らしさが端的に表現されている。
エーミールは、コムラサキを「二十ペニヒぐらいの現金の値打ちはある」と値踏みした後、(最初に値踏みしたことには二つの点で効果的である。①自分の鑑定眼をアピールする。②標本の価値を小さく見せる。)主人公の標本の欠点を徹底的に探し出し、発見した欠点を大きく伝えることで、僕の歓喜とプライドを見事に潰している。僕にとってチョウの採集が何より重要なことを、エーミールは当然知っていた。だから、最も自信のある標本を貶めることで、自分の方が上であることを印象付けようとしたのだろう。
エーミールは、相手を貶めて優越感に浸ることに快感を得るタイプの人間であり、また、その術(すべ)に長けていたようである。
6 エーミールと僕の関係
コムラサキの一件以降、僕はコレクションをエーミールに見せることはなかったが、隣人であるエーミールとの交流は続いていたようである。エーミールの部屋に忍び込んだ後、すれちがった女中にとがめられなかったのは、エーミールの家に入ることが珍しくなかったからだろう。ただし、二人が交流する間も、エーミールは僕を見下し、気持ちを逆なでするようなことが少なからずあったと想像される。例えば、エーミールの部屋に向かう直前に次がある。
そこに、例の先生の息子は、小さいながら自分だけの部屋を持っていた。それが、僕にはどのくらい羨ましかったかわからない。
羨ましく思う気持ちが最大級に表現されている。ここまで強く思うのは、エーミールがこれ見よがしな言動を取って、主人公の悔しさをあおっていたからだろう。
僕の中では、エーミールに対する悔しさ(恨み)が溜まっていく一方だったと想像される。
7 エーミールはどうやって僕を破壊したか
クジャクヤママユを破壊した犯人が僕だという告白を聞いた時、エーミールは何を考えたのだろう。驚き・怒り・恨み、そんな気持ちも起こっただろうが、それらを全く表に出していないのは、もっとずっと強い気持ちがあったからである。それは、〈この犯罪者にどうやって復讐してやろうか。最大限に傷つけるには、何が効果的だろう。〉という気持ちに違いない。そのためには感情を表に出さずに、思い切り軽蔑することが有効だと判断したのだろう。そして、しばらく考えて出てきたのが、印象的な次の言葉である。
そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。
人格・人間性の全てを否定する、強力な破壊力を持つ言葉である。だが、僕にはピンと来なかったようである。僕はこの言葉に、ほとんどダメージを受けていない。エーミールは僕を破壊できる言葉を探したに違いない。そして、「自分のちょうの収集を全部やる」と言った時、「これが攻撃のポイントだ!」と思ったのではないか。
結構だよ。僕は、君の集めたやつはもう知っている。そのうえ、今日はまた、君がちょうをどんなに取り扱っているか、ということを見ることができたさ。
下線を付した「どんなに取り扱っているか」には二重の意味がある。盗んだクジャクヤママユをどう扱ったか、という意味と、捕えたチョウをどうやって標本にしているか、という意味である。この背景には、標本製作の技術において僕がエーミールに及ばないという事実がある。つまり、エーミールは僕のコンプレックスを誇張する形で(お前のコレクションには何の価値もないと)攻撃したのである。さらに、「見ることができたさ」には、コムラサキの一件以来、僕がエーミールにコレクションを見せていない事が背景にある。つまり、〈最近のコレクションは見ていないが、君の技術を確認することができた(どの程度の標本なのか想像できる)〉という含意である。わずかな言葉でありながら、僕のコンプレックスを最大限に突く見事な攻撃である。その上で、その言葉の冷酷さは当人にしかわからない巧妙さをもっている。主人公はエーミールの言葉を次のように理解して、殺意を抱くほど激高したのではないか。
自分の技術を否定された → コレクションの全てを否定された
これが、ラストの標本の破壊につながっていく。
ただし、冷静に考えれば、エーミールに次のように反論して自己弁護することも可能だったはずである。
〇 盗んだチョウの扱いと標本技術を同一にするのは誤った論理である。
〇 自分の技術はエーミールが思っているほど稚拙ではない。
〇 エーミールに見せていない素晴らしい標本がたくさんある。
しかし、〈犯罪者〉である僕に、自分を守る思考はできなかったのだろう。自分の標本技術にコンプレックスを持っていた僕に、エーミールの悪意ある言葉が突き刺さったと考えられる。「僕は悪漢だということに決まってしまい」という言葉には、〈エーミールの言葉には何も反論できなかった〉という気持ちが現れている。
重い罪悪感を持っている時に、自分のコレクションの価値を強く否定されたことで、僕は〈自分のコレクションには何の値打ちもなかった〉と思い込んでしまったのだろう。何の価値もないと思ってしまったら、「ちょうを一つ一つ取り出し、指で粉々に押しつぶして」も痛みは感じなかったと想像される。
そして、これが僕とチョウの決別の儀式であったことは言うまでもない。
8 母はなぜ僕を一人で行かせたのか
母は僕に、エーミールに自分で全てを話すように諭す。この行為自体は立派なものだが、彼女のアドバイスには不可解な部分がある。
おまえは、エーミールのところに行かなければなりません。(中略)おまえの持っているもののうちから、どれかをうめ合わせにより抜いてもらうように、申し出るのです。そして、許してもらうように頼まなければなりません。
母は次を知っていたはずだからである。
〇 壊したチョウは貴重なものである。(息子から聞いている)
〇 息子の行為に弁明の余地がない。(これも息子から聞いている)
〇 エーミールの性格。(息子を何度も傷つけている、息子が彼を嫌っている)
〇 息子に高価なものを買い与えていない。(息子の持ち物で償うことはできない)
これだけのことが分かって入れば、当然、次が予想できていただろう。
〇 エーミールが許すはずがない。
〇 息子はエーミールに深く傷つけられる。
もしも彼女が息子を守りたいと思っていたら、あるいは息子とエーミールの関係修復を願っていたら、彼女は次のようにしたのではないか。
〇 息子とともに謝罪に行って金銭による補償を申し出る。(子供の手に負える損害でないことは明らかである)
母親は息子が大きく傷つくことが分かっていて、あえて単身でエーミールのところに行かせた可能性が高い。そして、それが彼女の狙いだったと思われる。語りの最初の段落に次の言葉があった。「みんなは何度も、僕にそれをやめさせなければなるまい、と考えたほどだった。」周囲の心配を知りながら、主人公がそれを何とも思っていなかったことは、既に確認したとおりである。そして、この後も、僕のチョウへの情熱は少しも衰えていない。また、僕の気性が激しいことも、母は良く知っている。彼女は日頃から次のように心配していたのではないか。
チョウの採集に没頭するうちに、何か大きな問題を起こすのではないか。チョウで問題を起こさなくても、将来、別の何かで大きな問題を起こすかもしれない。
だから息子の目を覚まさせるために、彼女はエーミールを利用しようとしたのではないか。〈エーミールに傷つけられることで自制心が生まれる〉そう考えてエーミールの家に行かせたように思える。家に戻った時の母については、次のように書かれている。
僕は立ち去った。母が根掘り葉掘りきこうとしないで、僕にキスだけて、構わずにおいてくれたことをうれしく思った。
母は息子がどの程度傷つけられて来るか、心配だったのだろう。そして、彼の心の傷が最悪の状態でないと判断し、キスだけして一人にしておいた。彼の心の状態は最悪レベルだったと思うが、吹っ切れたところがあるために、傍目には最悪の状態には見えなかったのだろう。
まとめ
この作品は、中学教材の中でトップレベルにある。時間をかけてゆっくり読み解きたい作品である。なお、ここで触れた以外にも考えるべき箇所があるので、時間のある時に補足していきたい。