舞姫(森鴎外)

1 作品のポイント

 『舞姫』は、激しい罪悪感に苦しめられる主人公が、あまりの辛さから、日本に向かう船上で体験を手記にするという凝った設定で作られている。主人公の書いた手記がそのまま『舞姫』になったという設定である。この設定から作品の性格として次が想定できるだろう。
 

  • 嘘は書かない(嘘を書けば罪悪感を重くしてしまう)
  •  自己正当化を行っている(罪悪感を軽くするため)

苦痛から解放されるための手記という性格を考えると、自己正当化をかなり行っていることが予想できる。もちろん、嘘はないだろうが、都合の悪い事実を隠している可能性が大きい。次を第一の課題としてみたい。「主人公は何を隠しているか。(知られたくない事実は何か)」

2 『舞姫』で描かれていないエピソード

『舞姫』の物語をごく簡単にまとめれば次のようになるだろう。

日本人のエリート官僚が華やかなベルリンで美少女の踊り子と恋に落ち、少女と同居し妊娠させてしまうものの、少女を捨てて帰国することを決めてしまう。彼の決断を突然知らされた少女は精神に異常をきたす。

倫理的に受け入れがたい物語であるが、倫理的に問題のある人物が主人公であっても、そのことが作品の価値を否定することはない。(『舞姫』が発表されるとすぐに、主人公の人間性を避難する批判が発表されるが、その批判に対して鴎外自身がこのように弁明している。なお、どちらも匿名で発表された。)本稿でもこの作品を冷静に分析してみたい。

『舞姫』をこのようにまとめた上で、この作品を読み返してみると、重要なエピソードが欠落していることに気づく。〈あるべきものがない〉と言ってもいいのだが、それは何だろう。

それは恋愛の喜びである。最後にどんな結末が待っていたとしても、超絶美少女と相思相愛になり同居までしているのだから、夢のような恋愛の喜びに包まれた時期があったはずである。休日のデート、彼女の手料理、たわいない会話、美しさに見とれた瞬間・・・。豊太郎にもそんなキラキラした記憶が存在していたはずだが、『舞姫』にはそんなエピソードが全く出てこない。これが書かれていない理由として二つの可能性が考えられる。

① 手記を書く時、そのような思い出が全く出てこなかった。
② あえて隠した。

私は➀だと考える。恋愛の喜びを隠してもマイナスの効果しか生まれないからである。次の二つを比較して欲しい。

③ 恋愛の喜びに包まれながら同居を始め、妊娠させてしまった
④ 恋愛の喜びはなかったが、同居して妊娠させてしまった。

④は無責任で腹立たしくなる。自分を救うための手記なのだから、できるなら④は避けたかったと思う。恋愛の喜びの記憶がなかったから書けなかった、と考えるべきだろう。

では、なぜ恋愛の喜びの記憶が出てこないのか。豊太郎にその体験がなかったからである。ここに主人公の最大の問題がある。豊太郎はエリスを本気で愛していなかったのだ。積極的に好意を示してくる美少女がいたら、どんな男でも好意を持つだろう。だが、その少女に強く惹かれるか、つまり恋愛感情をいだくかは別である。豊太郎はエリスに好意を持ちつつも、彼女に強く惹かれることはなかった。育った文化・受けた教育・知性などがあまりに違うことを考えれば、豊太郎がエリスに惹かれなかったとしても不思議ではない。会話が盛り上がらなければ、強く惹かれることはないだろう。

3 エリスへの愛情を直接書いた箇所

ただし、エリスに惹かれたという言葉が、何度か作品中に出てくるので、それを確認しておこう。まず、エリスと体の関係を持ったことを書いている段落に次の二つがある。

「余が彼を愛する心のにはかに強くなりて、つひに離れ難き仲となりしはこの折なりき。」
 → 関係を持った瞬間「にはかに強く」なったが、その後もその気持ちが持続したとは書かれていない。

「余がエリスを愛する情は、初めて相見しときよりあさくはあらぬに・・・」
 → この後、エリスの美しさが丁寧に説明されている。つまり、「愛する情」だけでは結ばれなかった、ということである。

相沢からエリスと別れるよう忠告された時に豊太郎は次のように思っている。
 
「貧しきが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。」
 → この後、豊太郎はあっさり相沢の言葉を受け入れている。つまり、「エリスが愛」は豊太郎を引き留める力を全く持たない。何より「エリスが愛」は自分のエリスに対する気持ちではなく、自分に対するエリスの気持ちと読める。

天方伯に従って一月ばかりロシアに滞在した後、持ちわびていたエリスが飛び出して豊太郎と抱き合う。この時、次のように考えている。エリスが正気を失う数日前の出来事である。

 「我が心はこのときまでも定まらず、故郷を思ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せむとせしが、ただこの一刹那、低徊踟躕の思ひは去りて、・・・・」
  → 愛情の方が強くなったのは、「この一刹那」だけである。

エリスへの愛情を直接書いた箇所は驚くほど少なく、しかも、その気持ちの強さが簡単に否定できる書き方になっている。

 さらに、上の引用からは、エリスに対する恋愛感情の欠落以外にもう一つの問題が見える。〈エリスか帰国か〉で苦悩していないことである。迷いはあったと書かれているが、悩んではいない。まるで他人事のようであり、何より、エリスの気持ちや境遇(捨てられたしまったらエリスがどうなるか)を全く考えていない。

 また、天方伯についてロシアに滞在していた時の気持ちを、「この間余はエリスを忘れざりき」と書いてはいるが、そこで書かれているのはエリスからの手紙の内容ばかりである。手紙を読んでの感想が「ああ、余はこの書を見て初めて我が地位を明視したり。」というのだから、エリスの未来を全く考えていなかったことが分かる。

4 『舞姫』が生徒から嫌われる理由

 この作品を教室で扱うと特に女子が嫌悪感を示すと、国語教師から聞いたことがある。豊太郎の冷たさを強く感じるからだろう。次の二つを比較して欲しい。

⑤ 本気で愛した少女と同居して妊娠させる。苦悩した末に、少女を捨てて帰国してしまう。
⑥ 恋愛感情を持てない少女と同居して妊娠させるが、苦悩することなく、少女を捨てて帰国してしまう。

行動として見える部分は同じでも、犯した罪の重さには大きな違いが感じられる。豊太郎が隠そうとしたのは、次の事実だと考えられる。

 エリスに恋愛感情を持っていない → 〈エリスか帰国か〉について苦悩しなかった

〈エリスを捨てて帰国したい〉これが豊太郎の本心だったのではないか。相沢からエリスと別れるよう諭された時の感想を引用してみる。

 「大洋に舵を失ひし船人が、遥かなる山を望むごときは、相沢が余に示したる前途の方針なり。されど、この山はなほ重霧の間にありて、いつ行きつかむも、いな、はたして行きつきぬとも、我が中心に満足を与へむも定かならず。」

相沢が進むべき道を示してくれたが、実現は難しそうだ、という感想である。この後に「棄て難きはエリスが愛」が出てくるが、相沢の忠告と対峙できる重みはない。

5 エリスはなぜ豊太郎に惹かれたか

 エリスはこんな冷たい男になぜ本気で惹かれたのか。その理由を考えみたい。エリスには豊太郎がどう見えたのか。おそらく、「神様のような人」だったと考えられる。そう推測する理由を列挙してみる。

 見ず知らずの自分の窮状を聞き、すぐに大金を与えてくれた。
 大金に対して何の見返りも要求しなかった。
自分を性的対象として見なかった。(踊り子であるエリスは常に性的な目で見られてきただろう。さらに、座頭のエリスに対する「身勝手なる言ひかけ」が愛人かそれに近い要求であることは明らかである。)
 遠い国から来た外国人である。
 外国人でありながら、きれいなドイツ語を話し、高い教養を持っている。
 父の死に合わせるようにやって来た。(運命的なものを感じただろう。)

これだけの条件に加えて、自分に好意を持ってくれるのだから、エリスが恋に落ちたのは自然なことだろう。ただし、豊太郎と自分が身分違いなのは明らかで、当初は、いずれ自分から離れていくと覚悟していたのではないか。彼が罷免されて同居することになった時、エリスはどんなに嬉しかったことだろう。それでも、豊太郎に捨てられる不安が頭から離れることはなく、豊太郎の優しい言葉にすがるようにして、彼を信じてきたと想像できる。

 「神様のような人」が自分を騙し続けていた。このギャップがエリスの衝撃を大きくしたと想像される。

6 直接話法で引用された言葉

 この作品では直接話法の使用がかなり制限され、特定の場所だけに使われている。最初に直接話法が登場するのは、エリスと出会った時の会話であり、その場面にはエリスの言葉がかなり長く引用されている。これを直接話法で引用したのは、この場面が強く記憶されているからだろうが、それとともに、〈何ら下心がなく純粋な気持ちで彼女に金を渡した。〉という事実を強調する意図もあったのではないか。

 それ以外に直接話法で引用されているのは、大臣とのやり取り、自分を思うエリスの言葉、そしてエリスを安心させようとする豊太郎の言葉である。直接話法で引用されたこれらの言葉には、共通点がある。それは何だろう。

 主人公の罪悪感を重くする言葉である。その場面・その言葉が繰り返し浮かんで、主人公を苦しめ続けたことが想像できる。

 また、直接話法の形式ではないが、ロシアにいる主人公に送られたエリスの手紙が詳しく紹介されているのも、切々とした手紙の文面が繰り返し思い出されて、彼の罪悪感を深めたことを想像させる。

7 補足

 この作品で確認するべきことが、他にあるとすれば次になるだろう。

 〇主人公の人間的欠点(流されるばかりで自分で決断できない弱さ)の確認。ただし、これは誰もが気づくことではある。
 〇最後の一文、特に「一点の彼を恨む心」に注目する。エリスを捨てた原因と責任は自分にあるにもかかわらず、相沢に責任転嫁しているからである。(相沢が帰国の話を進めたとしても、帰国を断ることは可能であった。)この最後の一文に、責任転嫁して逃げてしまう主人公の人間性が集約されているように思える。

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