1 三つのエピソード
「親譲りの無鉄砲で・・・」で始まる『坊ちゃん』は二つの印象的なエピソードで始まる。最初は小学校の二階から飛び降りた話、二つ目はナイフで自分の左手の指を切った話である。そして、この二つの後に三つ目のエピソードが置かれいる。それは、喧嘩のエピソードで、庭の栗の実を盗みに来た隣の息子と喧嘩をして勝利した話である。この喧嘩には特別なことが何もなく、怪我人も出ていないから、はじめの二つに比べて迫力に欠ける。第三エピソードまで記憶している読者は稀だと思う。
だが、三つのエピソードの叙述に注目すると、奇妙なことに気づく。始めの二つのエピソードが短くあっさり書かれているのに対し、第三エピソードは詳しく具体的で、まるで実況中継のように語られているからである。当然、叙述の量も多く、はじめの二つのエピソードを合わせたよりも長いスペースが割かれている。なぜ、つまらない第三エピソードがこんなに長くて詳しいのか。私はこのアンバランスを以前から不思議に思っていたが、現在感という概念を知るまで、その謎を解くことができなかった。
第三エピソードの叙述は、他の二つに比べて現在感が圧倒的に高い。現在感が突出して高い箇所は、注目させたいところ、厚く語っている場所、こだわっている場所と考えて間違いない。ここから、坊ちゃんが最も語りたかったのは、第一エピソードでも第二エピソードでもなく、第三エピソードだったことが分かる。つまらない子供の喧嘩を熱く語るのは、不可解のようにも感じられるが、漱石はその理由をテキストに書き残している。そして、第三エピソードを重視した理由を考えていくと、坊ちゃんの価値観や性格が浮かび上がってくる。
第三エピソードを丁寧に読み直していくと、「これは命よりも大事な栗だ」という言葉に気づく。これは誇張ではない。これを理解すると、この喧嘩はただの喧嘩でないことが分かる。「命よりも大事な栗」を守って年上の少年に勝利した輝かしい喧嘩なのである。だから、この喧嘩は熱く語りたい重要な体験になり、現在感が高くなったと推測できる。〈命より大事な栗を守った戦いは、最も輝かしい体験であり、一番語りたいエピソードになる。〉その通りだと納得できる。
だが、面白さという点から見れば、第三エピソードは初めの二つと比較にならない。話のネタを複数持っている時、受けそうなエピソードを中心に置くのが多くの人の判断ではないだろうか。普通の人は、聞き手の反応を考えながら語るからである。
ここに坊ちゃんらしさがある。彼は相手の気持ちや反応などは考えず、自分の価値観や一貫性に重きを置く。〈純粋で一貫しているが、世間一般の感覚とズレている。〉こんな行動原理を持っていたら、周囲との関係はうまく行かないだろう。『坊ちゃん』という作品はこの行動原理に牽引されている。
と、このように考えてみると、漱石という作家の凄さが見えてくる。主人公の重要な性格が、直接的な説明を一切使わず、見事に表現されているからである。しかも、それを作品の冒頭でユーモラスに、あっさりやって見せる。驚嘆すべき才能である。
さて、ここで使った方法を一般化してみよう。ここでは、〈物語の山〉と〈語りの山〉の間にズレがある。
物語の山 第一・第二エピソード
語りの山 第三エピソード
このズレに注目することで、表面的には見えない「作者の狙い」が見えてくる。
『坊ちゃん』の三つのエピソードはそれぞれ一つの段落に対応しているが、これより大きなマクロのレベル、あるいはミクロのレベルにおいても現在感は有効である。例えば、会話の中で突出して現在感の高いセリフがあれば、それは作者にとって重要な発言だと考えられる。これはテレビドラマや映画だけでなく、筆者が以前に分析した近松門左衛門の戯曲でも認められる現象である。8)7章に示した『走れメロス』でも、〈物語の山〉と〈語りの山〉のズレが、作品の問題を解決する手掛かりとなる。