『夢十夜』は教科書向きではない
『夢十夜』は教科書向きではない。教師にとって難しく、教師がどんなに頑張っても、学生を十分納得させる読みは出せないからである。こういう教材は国語の授業で扱うべきではない(教科書に集録するべきでない)と思うが、教材として採択されている以上、扱わないわけにはいかない。第一夜と第六夜と取り上げる。
『夢十夜』は実験的な作品集であり、作品ごとに世界観・叙述・テイスト、そしてテーマが異なる。これを確認した上で二つの作品を考えてみたい。
「第一夜」
この作品のポイント
甘すぎるほどのメルヘン的味付けがされた作品であるが、その見かけとは裏腹にかなり古典的なテーマが隠されている。古典的なテーマをファンタジーの形にした作品と解釈できるのではないか。「第一夜」では、表面的な物語のつじつま合わせは重要ではない。大事なことは、物語の背後にあるテーマを抜き出すことである。この作品のテーマは一つではない。少なくとも次の二つのテーマを取り出すことができるだろう。
- 信じられる者がいれば人は死ねる。
- 誠実さを伝えること。誠実さが伝わること。
「第一夜」の前半にあるのは女の死であり、血色が良く意識もしっかりした女が自らの意思で死ぬことが描かれる。では、彼女はなぜ死を決意したのか。根本的な理由は書かれていないが、男が女の注文をすべて受け入れたことが、死を決意するきっかになっている。自分の墓の作り方、墓の横に座って百年待ち続けること、この二つが女の注文である。前者はともかく、墓の横に座って百年待ち続けるのは相当な難題である。だが、男は迷うことなく「自分はただ待っている」と即答し、それを聞いた瞬間に女は死ぬ。男が百年待ってくれることを確信できたからだろう。ここでのポイントは次の二つになる。
〈人は誰かを信じることができれば死ねる。〉
〈死のうと決意すれば健康な人間でも死ぬことができる。〉
この二つに普遍性や正しさはないが、前半のテーマとしてこの二つが抜き出せる。この形のだと少々分かりにくいので、この二つを次のように書き換えてみる。
〈信じる者のために命を絶つ。〉
このように変えると、ぐっと分かりやすくなるだろう。これは武士にとっては当たり前のテーマであり、例えば、『雨月物語』の中の「菊花の契り」はこれがテーマだし、乃木希典の殉死もこれに含めることができると思う。
このように考えると、武士にとっては当たり前の古典的なテーマを、武士と対極的な形、すなわち「現在」の男女を使って(しかも主人公は女性)、極端なまでのメルヘン調にしたのが「第一夜」の前半と言えるのではないか。
後半では別のテーマが描かれている。
〈誠実さを伝えること。誠実さが伝わること。〉
これが後半のテーマではないだろうか。まず、男は女が言った通りの墓を作って女を葬る。(落下した「星の破片」が抱えるくらいに大きいのが面白い。本当に降ってきたら危険すぎる。)そして、約束どおり墓の横に座って百年待ち続けようとする。「百合の花」が女の分身であるのは明らかだが、「百合の花」が墓から出てくるまでに百年の時間が経過したとは到底思えない。(長い歳月の中で墓が荒れ始めるといったことが描かれていない。また、男の老いも描かれていない。)男は、待つことの理由や意味を考えることなく、「気が遠くなるほど」の長い時間、当たり前のように墓の横に座り続けていく。「女にだまされたのではなかろうか」という考えが浮かんだものの、墓から離れたいと思うことはなかった。
ところで、女が「百年待っていてください。」と言った時、この「百年」は正確に百年間という意味だったのだろうか。「気が遠くなるくらい長い時間」といった意味だったのではないか(墓の中の女が時間を正確に測れるとは思えない)。だから、迷いなく当たり前のように墓の横に座り続ける男を見て、十分約束を守ってくれたと感じ満足できたのではないか。男の誠実さが女に伝わった、女が誠実さを受け止めた、ということである。「男を解放してやろう」という気持ちになったのかもしれない。
ちなみに、漱石は百合の花が好きだったと言われ、この作品以外に『それから』では百合が重要なアイテムとして登場する。
問い
前半に女が、「死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと目を開けた。」とある。女が「ぱっちりと目を開けた」理由は何か。
男の気持ちを確かめるためだろう。女は死ぬことに決めていたが、男の気持ち(自分に対する誠実さ)を死のきっかけにしたかった。だから、男の気持ちを確かめようとしたと考えられる。
「第六夜」
作品のポイント
「第一夜」と違い、夢とは思えないほど自然で分かりやすいが、最後に置かれた「それで運慶が今日まで生きている理由もはっきりした。」の意味が説明できない。これも厄介な作品である。
1 主人公は賢いか
語り口に無駄がなく自信に満ちているため、うっかり騙されてしまうが、主人公の行動を冷静に見て欲しい。彼は賢い男だろうか。〈木の中に埋まっている仁王を掘り出しているだけだ〉という言葉を聞くと、それを本気にして自宅の薪で試し続ける。客観的な目を持って、次を読んで欲しい。
不幸にして、仁王は見当たらなかった。その次にも運悪く掘り当てることができなかった。自分は積んである薪を片っ端から彫ってみたが、どれもこれも仁王を蔵してはいなかった。
彼の行動は明らかに滑稽である。普通の判断力があれば、最初の一本で「仁王が埋まっているはずがないだろう」と気づくはずだからである。(いや、確認するまでもないと思うのが普通の判断力かもしれない。)しかし、彼はたくさんの薪を確かめ続けて、最後に次の〈結論〉に至る。「ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。」この言葉は、愚かな主人公の負け惜しみである。(最後まで自分の間違いを認めようとせず、「明治の木」のせいにしているのだから。また「悟った」という大げさな表現も負け惜しみにふさわしい。)鎌倉の木にも仁王が埋まっているはずはなく、主人公の言動はかなり滑稽である。
「第六夜」がおかしな話であることは、最初から二つ目の感想「人間をこしらえるよりもよっぽど骨が折れるだろう。」にも表れている。これが下品な言葉であることに説明の必要はないだろう。(「人間を彫るより」でないことに注意。)
2 作品のテーマ(1)
舞台が「鎌倉時代とも思われる」と書きながら、明治の大勢の人々が運慶を見物している。運慶が明治まで生きていたのか、明治人が鎌倉時代にタイムスリップしたのか、それとも時空の歪みによって鎌倉時代が垣間見えたのかは分からない。確実なことは、大勢いる明治の野次馬と運慶の間に、コミュニケーションやかかわりが一切ないことである。また、明治と運慶をつなぐような「小道具」、「人物」、「演出」なども一切見られない。そして、最後に「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とあることから、この作品の中心テーマとして次を導けると思う。
〈明治と鎌倉の断絶〉
ここでの〈鎌倉〉は伝統的日本の代表と考えられるので、次をテーマとしてもいいと思う。
〈伝統的日本と明治の断絶〉
3 作品のテーマ(2)
この作品には見物人のいろいろな感想が引用されている。最初の方はバカバカしいものがあるが、途中からもっともらしい感想が続くことで、これが真面目な作品だと思い込まされてしまうのだが、その感想を引用してみる。
さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我とあるのみという態度だ。
あの鑿と槌の使い方を見たまえ、大自在の妙境に達している。
一見鋭そうに見えるが、見たままを誉めているだけで、誰にでも言える感想である。さらに、運慶が〈木の中に埋まっている仁王を掘り出しているだけだ〉という説明?は、気が利いていていて鋭そうに思えるが、実態とかけ離れていることは主人公によって「証明」される。(主人公はこの言葉を信じて骨折り損をする。)ここから二つめのテーマとして次を導けるのではないか。
〈もっともらしいが内容のない言葉があふれている。〉
ここには、当時の言論人に対する漱石の皮肉が込められているように思える。
4 最後の言葉の解釈
「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった。」ここまで読んでいただいた方には、この最後の文の扱いがもう分かると思う。この判断の前提になっているのは、直前の「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。」という言葉だが、これが負け惜しみに過ぎず、誤った判断であることは既に述べた。(運慶は埋まっている仁王を掘り出しているのではなく、明治も鎌倉も関係ない。)だから、明治と鎌倉の木の違いを根拠に、「運慶が今日まで生きている理由」を考えることはナンセンスということになる。つまり、これを真面目に扱ってはならない。(この最後の文に納得できる解釈を立てることは不可能である。)
少々深読みをすると、このナンセンスな文を考えさせることで、この主人公と同じ徒労を読者にも体験させることが漱石の狙いだった、と考えることもできる。
5 「第六話」の扱い方
夢という設定を使って同時代人を皮肉ったのが「第六話」なのではないか。一つは伝統的な日本を簡単に捨ててしまっていることへの皮肉、もう一つは、もっともらしい言動に踊らされていることへの皮肉である。そして、愚かな明治人を代表する人物として主人公が造形されている。
このように書いても、「第六話」の語り口が真面目で偉そうなことから、筆者の説明に納得できないと感じる読者がいるかもしれない。そのような読者は『吾輩は猫である』の語り口を思い出していただきたい。あの語り口も真面目で偉そうである。