この作品のポイント
怪奇小説(ホラー小説)のような作りになっているが、怖さが中途半端であり、オチと言えるようなものも弱い。何より、〈自分自身が一番怖い〉というメッセージが(特に経験の少ない高校生には)共感しにくいだろう。
どうしてもラストのメッセージに目が行ってしまうが、淡々としながら、高度に計算された語り口が見事なので、語りの特徴、語り手の個性にも目を向けるべき作品である。
この作品を一言に言えば、あとからジワジワくることを狙った作品と言えるだろう。(ただし、ジワジワくるのは恐怖とは少し違うものである。)
主なポイントを列挙していく。作品のメッセージよりも、むしろ語り口、語り手に注目すべきポイントがある。語りについては本文のまとまりごとに考える。
1 もう一人の自分
〈もう一人の自分〉というテーマは欧米ではしばしば見られる。その典型は、ドッペルゲンガー(ドイツ語で二つの歩く者の意味)だろう。もう一人の自分であるドッペルゲンガーを見たらその人は死ぬと言われる。あるいは自分自身の影との闘い。ル・グウィンの『ゲド戦記』(ジブリ映画ではない)の後半はゲドと影の闘いの物語である。あるいは、大人になれないピーターパンは、自分と影が簡単に離れてしまい、影を自分の体に貼り付けるのに苦労する。
『鏡』だけを読むと〈もう一人の自分〉というテーマが唐突に見えるかもしれないが、村上春樹には馴染のあるテーマだったと思う。
激しい自己嫌悪・自己否定は、気力・希望などの生の支えを奪ってしまう。語り手は鏡の中の自分に、自己否定の恐ろしさを感じ取ったのではないか。外からの攻撃よりも、内からの攻撃(自己否定)の方が恐ろしい。自分を憎むもう一人の自分に支配されるとは、自己否定に押しつぶされることである。(これについては、「発展的な問い」の中でも考える。)
2 語りの巧みさを考える(最初のまとまり:前置き)
ここでの内容は、語り手の能力を伝えつつ、これからの話の価値を高める効果がある。
- 怪奇譚の俯瞰的なまとめ → 頭のよさ、冷静さ、自信
- 自分は幽霊を見たことがない → 冷静さ、これからの話が錯覚ではない
- 一度だけ心の底から怖いと思ったことがある
語り手は、頭が良く、冷静で、幽霊を見たことがない。話し手のこの資質は話の信憑性を高める。さらに②と③が合わさることで、これからの話に特別感が生まれて期待が高まる。
3 語りの巧みさを考える(次のまとまり:恐怖体験の前の説明)
誰もいない夜中の学校は普通の人なら怖いはず。(学校やテーマパークのような昼に多くの人が集まる場所は、誰もいない夜には極度に寂しい場所になる。)夜中の学校を一人で楽しんでいたことで、恐怖感を感じないこと、度胸の良さのアピールになる。そして、この人が恐ろしいという体験への興味が高まる。
また、学校警備という珍しい仕事につくまでの事情が、完結かつ適切に説明されており、ここでも語り手の賢さが感じられる。
4 語りの巧みさを考える(最後のまとまり:恐怖体験)
舞台設定の演出(1)
季節外れの暑さ、風が強い、風が強い日に蚊が多いのも不自然 → 普通の日ではない。
バタンバタンという音 → 不気味さ(何かがいるかもしれない、何かが入ってきても分からない)
舞台設定の演出(2)
不吉な予感(起きたくない)、バタンバタンという音を「狂った人間」にたとえる、湿っぽさを増す空気、肌がちくちく(湿った空気でちくちくするか?)
叙述速度のコントロール
最後のチェックポイントに近づくと叙述速度が極端に遅くなる
→ これまでと違う印象で恐怖の出現を予感させる
冷静な語り口を崩さない
大げさな言葉・大げさなたとえを使わない、冷静に語ろうとする姿勢を貫く
例えば、
「奴の方が僕を支配しようとしていたんだね。(改行)僕はその時、最後の力をふりしぼって大声を出した。(中略)それで金縛りがほんの少しゆるんだ。」
これを次のように書き換えてみる。
「気が付くと、金縛りにあって声も出せなくなっていた。普通の金縛りなら体が動かなくなるだけだけど、その時の僕は自分の意に反して体が動いていく。鏡の中の自分の動きに合わせて、手が顔をゆっくりなでていくんだ。鏡の中の自分が次に何をするかを考えると本当に恐ろしかった。でもその時、最後の力をふりしぼって叫び声をあげることができた。それで金縛りがほんの少しゆるんだんだ。あの時声を出せなかったら、僕は今ここにいなかったと思う。」
このように書くと、状況が分かりやすくなり、恐怖感も強くなる。恐怖心を煽る語り方を避けていることが分かると思う。
発展的な問い
1 恐怖心を煽る語りをしていないのはなぜか。
その瞬間を怖くするのではなく、後からじわじわ怖くさせることが第一の狙いだろう。第二の狙いは、語りに信憑性を持たせることではないか。
2 語り手の性格や能力を考え、それが語りの内容にどのように影響しているかを考える。
これは既に書いた通り、賢く、冷静、自信があり、恐怖を感じず(恐怖に対して鈍感)、幽霊を信じないといった性格(能力)。これらは語り手を信頼させ、語りの信憑性を高め、語りへの興味を高める。
3 〈自分自身が一番怖い〉というのはどういう事か。
激しい自己否定・自己嫌悪は自信・気力・希望など、生の支えとなるものを容赦なく奪ってしまう。そこまで激しくなくても、自分を受け入れられない、自分を許せないという感覚は、ジワジワと自分をむしばむ。気力と希望があればどんな逆境も乗りこえられるが、自信・気力・希望などを失えば生きることすら困難になる。外側からの力よりも内側からの力の方が、確実に人を破壊する。〈自分自身が一番怖い〉というのはこのことではないか。
他の解答の可能性として、「誤った判断、怠惰などが人生を失敗させること。」というのが出るかもしれないが、そういった失敗はやり直しができる。つまり浅いレベルである。「心の底から僕を憎んでいる」というのは、もっと深く根本的なところで自分を否定し攻撃するものと考えるべきだろう。
〈自分自身が一番怖い〉と聞いて、すぐにピンと来る人は少ないと思うが、これが自己否定の恐ろしさのことだと気づくと、この作品の怖さがジワジワと分かってくる。
4 語り手が自分の家に鏡を置かない理由は何か。
あの恐怖を二度と体験したくないからだろう。だが、今の社会は鏡に満ちている。例えば、公共施設・学校・ホテルのトイレには必ず鏡がある。車にはバックミラーがついている。その時彼はどうしているのだろう。目を背ける・目を閉じる、全ての鏡の前でそんなことが可能だろうか? また、それだけでもう一人の自分に出会う可能性をゼロにできるのか?
この作品はここに突っ込みどころがある。
参考:自己肯定感について
完璧な人間などいない。人はみな欠点だらけである。だからと言って自分を受け入れなくては、自己否定に襲われて生きるのが苦しくなる。自分の欠点をなくすのではなく、「ありのままの自分を受け入れる」、「ありのままの自分を好きになる」これが自己肯定感であり、自己肯定感は前向きに生きるエネルギーをくれる。強い自己肯定感を得ることは簡単ではないが、〈欠点のある自分を受け入れよう〉と意識するだけで、ほんの少し楽になるのではないか。