1 ラストの謎
『走れメロス』のラストは、メロスとセリヌンティウスの命が救われただけでなく、メロスの信実に打たれた暴君ディオニソスが改心するという大団円で終わるが、王のこの改心に納得できる読者がどれだけいるだろう。不可解な点を列挙してみよう。
(1) 暴君ディオニソスの企み
王はメロスの提案を受け入れて、セリヌンティウスを身代わりに三日間の猶予を与えた時、次のように考えている。
このうそつきにだまされたふりして、(中略)人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代わりの男を磔刑に処してやるのだ
メロスが戻ってこないと王が確信しているのは、「ちょっと遅れて来るがいい。おまえの罪は永遠に許してやろうぞ。」と言っているからである。
セリヌンティウスの弟子は、王とセリヌンティウスの様子を、「王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え」と言っている。セリヌンティウスを支えていたメロスへの信頼が崩れ、セリヌンティウスが絶望する様子を想像して、王は嬉しかったのだろう。そして、そうなる瞬間を待ち望んでいたに違いない。だが、王の企みは実現直前でメロスに阻まれてしまう。セリヌンティウスをからかっていた王は、衆人環視の中で恥をかかされた訳で、メロスに対して怒り心頭になったのではないか。
(2) メロスは日没に間に合ったのか
メロスが刑場に到着したのは日が地平線に没し「最後の一片の残光も消えようとした時」だった。だが、この時メロスは喉が潰れて声が出なかったため、誰も彼の到着に気づかない。仕方なくメロスは群衆を押し分け、やっとのことではりつけ台に上がるが、群衆を押し分けてはりつけ台に上がるまでには、ある程度の時間がかかるだろう。彼がはりつけ台に上がった時には、陽が没していたと可能性が高い。仮に日没の判断が微妙だったなら、王は〈間に合わなかった〉と判定し、セリヌンティウスを〈予定どおり〉処刑できるはずで、そうすれば王は恥をかかずにすむ。王はなぜそうしなかったのだろう。
(3) 王の改心の謎
王は処刑の中止を黙認して二人の命を助けたばかりか、友人になって欲しいと二人に願い出る。その時の王の言葉を確認してみよう。
おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、お前らの仲間の一人にしてほしい。
恥ずかしいほどの素直さで二人を賞賛し、さらに仲間に入れて欲しいと頼んでいる。この時、王は顔を赤らめていたという。
王が純情で素直な人物ならば、〈メロスとセリヌンティウスの友情に感動して心変わりした〉という説明が成り立つだろうが、この王は人を信ずることができない暴君で、自らの妹や息子まで殺してしまった男である。メロスがシラクスに来た日にも六人殺したという。
そんな王がラストでいきなり別人のように変わってしまう、この〈改心〉はあまりに極端で受け入れがたい。
(4) 改心を納得できない理由
次のどちらかが書かれていれば、王の〈改心〉に納得できた可能性があるが、作中にはどちらも書かれていない。
太宰はどちらかを書いておくべきだったが、それが何もない。だから、ラストが破綻しており、『走れメロス』は失敗作であると批判することもできる。この批判には妥当性があるから、このような読みを提示すれば、生徒は批判的な発想を刺激されて興味を持つかもしれない。だが、この作品が高い評価を得ている事実を踏まえれば、作品の読みをここで終わらせるのは望ましくない。ラストの王の改心に対して納得できる合理的な説明を用意すべきである。
2 王は改心を望んでいた
まず、王の改心には必然性があることを確認したい。この暴君は複雑である。メロスと最初に会った場面で王は次のように言っている。「おまえなどには、わしの孤独の心がわからぬ。」では、なぜ王は孤独なのか。その理由を王は次のように語っている。
疑うのが正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心はあてにならない。人間はもともと私欲の塊さ。信じてはならぬ。
昔の彼には人を信じる気持ちがあったものの、裏切られたことで暴君になったことが分かる。さらに、王は「わしだって、平和を望んでいるのだが。」とも言っている。つまり、彼は自分の今の状態が良いとは思っていなかった。
メロスとセリヌンティウスの誠実さが、そんな王を改心させたことになるが、当たり前の誠実さでこの暴君を改心させることは不可能だろう。彼を救うには、〈圧倒的な何か〉が必要なはずで、メロスとセリヌンティウスはそれを持っていた、ということになる。
この二人が互いの顔を思い切り殴り合っていることからも、彼らの信頼と友情が普通のレベルでないことは分かるが、この殴り合いが〈圧倒的な何か〉であるとは考えにくい。もっと圧倒的なもの、それも一見して分かるような何かが必要である。
3 作者がこだわった叙述を探す
この作品を起承転結に分けてみよう。
- 起 メロスが王と契約し、セリヌンティウスを人質に出発する。
- 承 妹の結婚式、濁流や盗賊等の障害。一度はあきらめかけるが走り切る。
- 転 メロスが日没前に戻る。
- 結 王が改心して、二人を許すだけでなく友人になりたいと願い出る。
(1)「承」に注目する
王の変心の謎を解く鍵は「承」に書かれている。
「承」の内容は次の二つに分けることができる。①村でのできごと(結婚式など)。②村を出でシラクスの広場に到着するまで。
重要なのは②であり、そこには次の3つのエピソードがある。
- 橋が流され濁流の渦巻く川を泳ぎ切るエピソード
- 山賊に命を狙われたエピソード(山賊は王の放った刺客の可能性がある)
- 肉体と精神の極度の疲労
三つはそれぞれ、自然との闘い、人間との闘い、自分との闘いを象徴的に示している。叙述の現在感は、川と山賊のエピソードがあっさりしているのに対し、自分との闘いはそれよりはるかに長く詳しい。この現在感には闘いの困難さが反映されていると考えるべきだろう。つまり、川との戦い、山賊との戦いには簡単に勝利したが、自分自身との闘い(極度の疲労との闘い)は困難な闘いだった、という事である。
自分との闘いを確認してみよう。眠りの前後で思考が大きく変わることが重要である。
(2)自分自身との闘いを詳しく見る
〇村から走り出す時
メロスは次のように思っている。
私は、今宵、殺される。殺されるために走るのだ。身代わりの友を救うために走るのだ。王の奸計邪知を打ち破るために走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。
→ メロスは自分を納得させようとしている。それは自分の中に迷いがあるからである。
〇走れなくなった時
濁流を渡り、山賊をと闘った後、とうとう体力が尽きて倒れ込む。〈間に合わなければ、自分は処刑されない〉ことを前提に、いろいろ考えたあげくに、「どうとでも勝手にするがよい。やんぬるかな。」と思い眠ってしまう。
〇眠りから覚めた後
水の音で目覚め、水を飲んで体力が回復すると、メロスの思考は全く変わる。メロスの思考あるいは発言を抜き出してみる。
私は信じられている。私の命など問題ではない。(中略)私は信頼に報いなければならぬ。今はただその一事だ。走れ!メロス。
「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。」
次の地の文もある。
ただ、訳のわからぬ大きな力に引きずられて走った。
〇眠りの前後を比較する
前半では自分とセリヌンティウスの関係を考えている。思考の中に、王とセリヌンティウスが登場する。思考の中心にあるのは次の二つ。①セリヌンティウスが自分をどう思うか。②処刑されなかった自分はどうするべきか。
後半では、〈自分が信頼されている〉ことの重みに気づき次を強く思う(思考には王はもちろん、セリヌンティウスも出てこない)。①信頼に応えなくてはならない。②信頼に応えることは命よりも重い。だから、結果を考えてはいけない。
〇前後の違いのポイントは何か。
前半:命が一番大事
→ 自分のことしか考えていない
後半:命より重要なものに気づく
→ 自分のことは考えない、だから思考の中に個人は登場しない。
肉体の限界を超えるまで自分を追い込んで、もうこれ以上動けなくなった時、命を越える大きな価値の存在を実感し、その価値に導かれて疾駆を開始する。これは〈悟りを開いた〉状態と言っていいのではないか。
走り続けるメロスは次のようにまとめられるだろう。
命を越える大きな価値を実感し、その価値のために肉体の限界を超えて疾走する。
その姿を想像して欲しい。その姿は鬼気迫るもので、周囲を圧倒するすさまじいオーラを発していたのではないか。その姿がラストの奇跡を起こしたとは考えられないだろうか。
ラストに見られる奇跡は王の改心だけではない。全く妨害されることなく刑場に入れたこと(メロスは山中で刺客(山賊)に襲われている)、王の命令を確認せずにセリヌンティウスの縄が解かれたこと、どちらも奇跡と言っていい。これもメロスのオーラの結果だろう。王が「群衆の背後」から二人の様子を見ていたのは、強いオーラを発するメロスの姿に圧倒されたからではないか。そして、メロスの発するオーラに王は救いの可能性を直感したのではないか。王が二人に対し謙虚な態度を取ったのは、メロスが自分よりも圧倒的に上位の人間と感じたからだろう。
4 作品のポイント
『走れメロス』の〈物語の山〉はラストであるが、〈語りの山〉はメロスが「悟り」を得る場所に置かれており、二つの山のズレに作品を読み解くポイントがある。名作と言われる作品には、このような読みが成立するものが多い。
補足1:フィロストラトスはなぜ登場したのか。
セリヌンティウスの弟子フィロストラトスの登場は、いささか唐突で間が抜けている。師であるセリヌンティウスを助けるために(メロスの応援に)来たのであれば、まだ分からないではない。だが、師の命を早々にあきらめて、メロスを止めるために来たのは、少なからず不自然である。
彼の登場は、演出効果あるいは演出上の都合から考えるべきだろう。メロスを止めようとする誘惑の役割りが一つ(走っても無駄であり、自分の命を大事にしろ)。だが、それよりも、メロスの信念をメロス自身の声で語らせることが第一目的だと思う。メロスは彼に答える形で心中を語るからである。
補足2:メロスはなぜ裸なのか
メロスは途中から全裸で走っており、作品のラストで全裸であることが唐突に指摘される。なぜ、太宰はここで全裸にこだわったのか。これについては絵画や彫刻に描かれるギリシャ・ローマの神々が裸であることが(全裸とは限らないが)、手掛かりになるのではないか。悟りを開いたメロスは神に近づいていた。神に近づいた人間に相応しい姿として、全裸が選ばれたのではないか。
参考:動画『山田五郎 大人のための教養講座』(「民衆を導く自由の女神」の解説)