お釈迦様の最大の罪は何か。
蜘蛛の糸
芥川龍之介
作品のポイント
あまりにも有名な短編である。
自分ばかり地獄から抜け出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰を受けて、もとの地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様のお目から見ると、あさましくおぼしめされたのでございましょう。
お釈迦様をめぐる疑問点
お釈迦様は全てを知り、先々まで見通せる高い知性を持った存在である。それを踏まえると、この作品に登場するお釈迦様には、判断や行動のあちこちに不可解な点がある。まずそれを指摘してみたい。
1 犍陀多を選んだ事への疑問
血の池で苦しむおびただしい罪人から、お釈迦様は犍陀多を選ぶ。その理由は一匹の蜘蛛を殺さずに生かしたという善行である。文字通り虫一匹の命を助けたことだが、この程度の善行なら、どの罪人も行っているのではないか。いや、地獄の罪人の中には、もっと大きな善行を行った者がたくさんいるはずである。犍陀多だけを助けようとした判断に妥当性があるだろうか。
犍陀多一人を見て救済候補を決めるのではなく、罪人全員の行いを確かめた上で救済候補を考えるべきではなかったか。
犍陀多の善行と悪行を勘案すると、「できるなら、この男を地獄から救い出してやろう」という判断は甘すぎるように思える。悪行が「人を殺したり、家に火をつけたり、いろいろな悪事を働いた大どろぼう」なのに対し、善行は一匹の蜘蛛を踏まなかったという小さなものである。悪行の大きさに比べて善行はかなり小さい。このバランスを考えると(救済できる可能性が低かったとしても)、彼に救済のチャンスを与えることが妥当だとは思えない。犍陀多にチャンスを与えるのであれば、ほとんど罪人に救済のチャンスを与えるべきだろう。
2 顛末を予測できないことの不思議
この作品で最も不可解なのは、お釈迦様が先を見通せないことである。お釈迦様は深い洞察によって人々を救済する人物であり、洞察力に欠けるお釈迦様はあり得ない。しかし、この作品に登場するお釈迦様の洞察力は一般人の水準に達しているか、すら疑問である。その一つを紹介したい。
犍陀多のこれまでの人生と地獄での苦しみを知っていれば、お釈迦様でなくても次をすぐに予想できることだろう。
- 地獄から脱出できるのであれば、犍陀多はどんなことでもするだろう。
- 自分一人の脱出も危うい状況にあれば、他の罪人を助けようと思う余裕は生まれないだろう。
- 地獄での苦しみが、犍陀多の性格・考え方を良い方向に変えることはないだろう。
- 蜘蛛の糸を上る犍陀多を見たら、他の罪人も糸を上ろうとするだろう。
お釈迦様はこれくらいのことは当然分かっていたはずで、犍陀多が血の池に落下する結末までを十分予測できたはずである。ならば、失敗すると分かっていながら、なぜ蜘蛛の糸を犍陀多に投げたのか。その理由として考えられるのは次の可能性しかないと思う。
地獄の苦しみが犍陀多の性格をプラス方向に変えて、自分のエゴを抑えることができるかもしれない。
お釈迦様はわずかな可能性に賭けて糸を投げたことになる。だとすれば、落下する犍陀多を見て、どちらに落胆すべきだろうか。
- 犍陀多のあさましさ・無慈悲さ
- わずかな可能性に期待してしまったこと(自分の愚かさ)
お釈迦様は自分の愚かを笑うべきではないのか。(犍陀多の「無慈悲な心」は十分わかっていたのだから、落下する様子を見て〈今さら〉あさましいと思うだろうか。)
3 もしも蜘蛛の糸が切れなかったら
これもお釈迦様の洞察力にかかわる疑問点だが、2よりも重い問題である。もしも、犍陀多がエゴを抑えて何万里もの距離を上り切り、極楽の池に到達してしまったら、お釈迦様はどうするつもりだったのか。犍陀多を極楽に入れるのか、それとも自らの手で犍陀多を地獄につき落とすのか。
これは、糸を投げる前に考えておくべき事である。もし、大悪人の犍陀多が極楽に到達する可能性を考えることなく糸を投げていたとすれば、その無責任さは大いに非難されるべきだろう。ちなみに、私は次のように考えている。
もしも犍陀多が己のエゴを抑え続けて何万里もの距離を上り切れれば、それは悟りを開いたに等しい重みがある。つまり、極楽が相応しい人間に変わったと考えられるので、極楽に入れていい。
なお、SF作家の小松左京は同じ設定から異なる物語を書いている。
地獄から犍陀多に続いて次々に罪人が極楽にあがってくる。それを阻止しようとしたお釈迦様は誤って地獄に落ち、自身が蜘蛛の糸をのぼり始めて・・・。
という楽しい物語である。
4 最大の問題:この後罪人たちはどうなるか
これもお釈迦様の洞察力にかかわる問題である。この作品に見出せる問題の中で、これが最大の問題だと思う。
血の池に落下した犍陀多は、その後、どうなるだろう。次の脱出チャンスを求めて、つまり蜘蛛の糸が再び下りてくるかもしれないと、常に上の方を気にするようになるのではないか。他の罪人たちも同じことを考えるはずである。
これはお釈迦様が犯した最大の罪だと思う。地獄で聞こえる音については次のように書かれている。
あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく微かな嘆息ばかりでございます。これは、ここへ落ちてくるほどの人間は、もうさまざまな地獄の責め苦に疲れ果てて、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。
救いの可能性がゼロだから悲鳴を上げることもないのだろう。だが、蜘蛛の糸を知ってしまった後、地獄には悲鳴やうめき声など聞くに堪えない声があふれたに違いない。希望を持つことで責め苦の苦痛は何倍も大きくなる。だから、救済の可能性のない罪人に希望を与えてはならない。救われる可能性のない罪人に希望を与えてしまった、大罪についてお釈迦様はどう考えるのだろう。
犍陀多の不可解さ
お釈迦様に比べれば少ないものの、犍陀多にも不可解な点がある。それは、理解が早すぎることである。蜘蛛の糸を見た時の犍陀多について、次のように書かれている。
遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一筋細く光りながら、するすると自分の上へ垂れてまいるではございませんか。犍陀多はこれを見ると、思わず手を打って喜びました。この糸にすがりついて、どこまでも上っていけば、きっと地獄から抜け出せるに相違ございません。
救いの可能性のない地獄で未知の糸に出会ったとたん、これで助かると思うのはあまりに楽天的である。地獄とは救済の可能性のない場所である。だとすれば、未知の糸を見つけたところで、それで助かるとは思えないだろう。新たな苦痛の到来を警戒するのが自然な感覚ではないだろうか。例えば、糸を強く引いてみたり、糸の出所を確かめようとしたり、少しだけ上って感触を確かめたりと、糸の正体あるいは糸のもたらす可能性を慎重に見きわめようとするのが自然ではないか。
さらに、責め苦ばかりを体験している罪人なら、糸を上り切ったとしても、そこには別の地獄があると考える方が、自然なのではないか。
犍陀多の思考と感覚には、地獄の罪人にふさわしい警戒感や絶望感が欠如しており、リアリティが感じられない。
罪人たちの不可解さ
さらに罪人が数珠つなぎで上ることはあり得ない。罪人たちが数珠つなぎになって糸を上るには、前の罪人が十分な高さに上るまで、次の罪人は辛抱強く待つ必要がある。そうしなければ前の罪人の腰や足に手をかけることになって、二人とも上に上がれずに落下するだろう。
平時であり、なおかつ全員が救助される見込みがあれば、そのような冷静な行動が取れるだろうが、血の池の罪人にそれは不可能である。
例えば、戦場で軍艦が沈んだ時、海に投げ出された水兵たちを救助しようとロープを一本だけ投げ込むと、誰もロープを上ってこられないと言う。ロープを上り始めた水兵に他の水兵が抱き着いて海に落としてしまうからである。「自分も助かりたい。こいつが先に助かるのは許せない。」と考えるからである。いつ敵が襲ってくるか分からない戦場では、訓練を受けた水兵ですらそうなってしまうのだ。地獄の血の池から脱出できる可能性は、戦場以下だと考えられる。気持ちの荒れた罪人が整然と糸を上れる可能性はゼロと言っていいだろう。
ちなみに、実際の戦場で水兵を救助する際には、それを避けるために何本ものロープを海に投げ入れるが、それでも、ロープを上り始めた水兵は、他の水兵に抱き着かれて落ちてしまうことが多いそうである。
この作品をどう読むべきか
『蜘蛛の糸』は、お釈迦様の能力を以下のアンバランスに設定することで成立している物語である。
お釈迦様 → 強大な力を持つが洞察力が低い。
設定の不自然さを批判することで新たな教訓を導くことができると思う。また、合理性のある物語を考える、ある種の〈思考実験〉も可能かもしれない。
1 お釈迦様を批判することで教訓を導く
巨大な力を持つ者は、誰かを救済しようとする場合に様々な問題を引き起こしてしまう危険がある。(企業の救済、災害の復興支援、補助金の出し方・・・などに該当する事例を探せると思う。)
極楽で安楽な日々を送っていると、お釈迦様であっても思考力が鈍ってしまう。(至れり尽くせりの環境は人を堕落させる)
2 合理性のある物語の可能性を考えてみる
次の二点について考えてみても面白いかもしれない。
救済するべき罪人を選ぶ方法を考える。
救済するべき罪人を選ぶ際に妥当なのはどんな観点(基準)か。(罪の大きさ、罪を犯した事情、被害の大きさ、被害者感情・・・)
救済候補に選ばれた罪人を救済する方法を考える。
そのためには、地獄側(閻魔)との交渉する正攻法が考えられるが、閻魔に見つからないよう秘密裡に救済する方法も考えられる。